福岡商業学校時代
(出典:「マルクスが日本に生まれていたら」156~157頁)
ぼくは子供のときに、贅沢をつつしむという点で、両親から非常にきびしく育てられた。ぼくの家は中流以上の家庭だったが、食事など非常に質素だった。その頭でいくと、ぼくは贅沢(ぜいたく)は人を殺す、贅沢は対立のもとだ、と言うんだよ。生活が安定するしないは、心の安定の問題なんだ。
ぼくはこのように、貧困の問題を物の面からだけでは考えない。人間は食べなければ生きていけないが、それは足ればよいのである。それとは別に心の富がありはしないか。東洋では昔から「足るを知る者は富む」と言うが、自ら満足することが大切なんだ。ぼくは富ということについて考えるんだが、心の富ということのほうが大切ではないか。「物の国」では、金とか物とか物質的なものが富となっているが、「人の国」では、心の富・心の豊かさというものがあると思うんだ。前にも言ったように、心に善悪はなく、心はすべて真心だと思う。真心があれば、人に親切にしたり、社会のために尽くしたり、自分が譲って人を助けたりする、というような善い行為が出てくる。
このような真心の発達している人が、心が富んでいるということじゃないかな。そういう人は知恵とか知識とかを悪用せず、人のため社会のために善用することになる。そういうわけで、心が常に富んでいるということが、人間にとっていちばんしあわせであり、大切なことだと思うんだ。反対に、貪欲、非道の人がいくら金を持って贅沢をしていても、おそらく心の中には福祉というものは考えられないだろう。(中略)よく物の面の豊かさを外国と形式的に比較して、まだ追いつかない、追いつかないというが、なにも外国に物の面で追いつかなくてもいいじゃないか。それよりも外国の人に向かって、心の豊かさと心の富のあり方に追いついてこい、それが平和に通ずる道だ、と教えてやったらどうだい。要するに、心の富貴の人になって、金を持った貧乏人にはなるな、ということだ。