公団指定販売店となった清水出張所の江尻油槽所 1949 年
(出典:「我が六十年間 第一巻」246~247頁)
(前略)終戦後海外から引き揚げて来た多数の社員も早や二ヶ年を過した。今年の夏の七八月は全社員の勤務の調査に没頭した、その結果は前に述べたような海外の学校出に対する悩みは完全に拂拭(ふっしょく)されたのみでなく、吾々の信念である處(ところ)の、『力(つと)めて艱難(かんなん)に向へ、艱難必ず汝(なんじ)を玉とす』と言う事に対して、体験上確固たる信念を得ることとなった。広島県の山奥に戸手実業学校と言うのがある。その卒業生が轡(くつわ)を並べて優秀な成績を示して居るのが特別に目立つ、校長や先生方の人格が影響しているのか、伝統的の校風の然(しか)らしむるのか、土地の美風に感化されて居るのか調べて見たいと思っている。次に上海商業とか台湾の学校とか私の悩みであった卒業生が大体に成績が良くて、その中に優秀者を多く出している事は私の望外の大喜びであった。本人たちのために喜ぶと共に、艱難汝を玉にす、力めて苦労せよと言う吾々の信念がありありと証拠立てられて、その後総(すべ)てに力強く、自信タップリと歩み得ることに非常に満足するものである。
満州とか中国とかに永住していた人々は骨をその地に埋める覚悟で、財産の全部を外地に移して居た。それが敗戦によって全滅したのだから物心両面から受けた打撃苦痛は想像に余るものがある。引き揚げ迄の肉体的苦労に加へて、全家族の将来を案ずる時にその精神的の悩みは死に勝るものがある。その子弟たる出光の同士とその家族達は出光の覆滅を想像しつつ悩み抜いたであろう。内地に父兄を有する人々とは段違いの悩みであったろう。そして肉体的苦しみの中にあって、瞑想又瞑想の絶好の機会を与へられた。艱難汝を玉にするの機会は与へられた。ジャワのある港で日本人に重労働が課せられた。敵側のために真面目に働くことはないと言うのが皆の意見であった。この時に出光の人十数人は断然これに反対して真剣に働いて捕虜としての全責任を果たそう、これが日本人としての真の態度である、と主張し二三十人の共鳴者と共に全力を盡(つく)して働いた。これが敵側を感動さして、挨拶も対等に交換するようになり、総てに対して日本人を尊敬するようになったと言う美談もある。力めて苦難に向い、自分を玉としたる好適例である。