徳山タンク底作業班
(出典:「我が六十年間 第一巻」171~172頁)
終戦直後私は店員を馘首(かくしゅ)しない事を言明しました。
終戦により大東亜地域に於ける出光の全事業は消滅したのである。
内地の石油業は石油配給統制会社に取り上げられて、形ばかり残って居るに過ぎない。八百の店員に職を與(あた)へねばならぬ。
学校を出てすぐ入社して今日に及んでいる人だけでもやめて貰(もら)ったらと言う説が出たのも無理はない。大部分を退店さすのが常識と思う。
然(しか)るに私をして軽々と全店員を辞めさせないと言明さしたるは無論大家族主義による事であるが、その実店員諸君が私の口を借りて自ら言明したと見るべきである。即ち人の力である。
私は事もなげに出光の復興を信じて居た。これは合理的熟考の結果でなくして、即興の直感が私を斯(か)く言はしめたのである。
私の心の底に潜在して居る人の力に対する信頼感が斯くせしめた。
それから間もなく重役(その頃、山田、林、原田、山本の諸君)は、出光は事業も資産も無くなって居るが、多くの店員が残っていると、私を慰めてくれた。
九月も過ぎ十月を迎えるも仕事は見付からない。石統も仕事を行えない甚(はなは)だ心淋(さみ)しい。
この頃、山陰道の開墾事業や紀州の漁業が芽をふき始めた。内地の復員者何十人かに達したが海外よりは便りもない。
この頃から石統が解散して出光はその一役を買わねばならぬ等の噂も出た。
若(も)しそうなったら石統の人が加勢をしてくれるだろうか……私は不安を感じた。人の力の欠如が私を斯く感ぜしむる。
海外から帰る迄(まで)は仕事は始められぬ。野垂れ死にをすると思った。
この不安も人の力に起因する。
十一月の末から初めにかけてラジオ部の話が持ち込まれた。
全国に百以上の店を新設して店舗網を張る事である。難事業である。
誰もがやらない無謀に近い計画である。重役は大体不賛成である。私は四面楚歌である。
しかしながら私は軽々と決心した。すぐと実行に取り掛った。私を斯く決心せしめたのも人の力である。
之(これ)を要するに終戦後の昨年は、人の力により確信を持ち、又反対に人の力を待たざる事によりて不安を感じ、徹頭徹尾人の力に対する瞑想(めいそう)の中に年は暮れた。