(1949年10月 詔書奉読式における訓示「事業と芸術」より)
生産者より消費者への小売業には、まず施設の建設、商品のストック、売掛金の増加等のため非常に資金を要する。
これが満州、朝鮮、台湾と大地域に及ぶに従い、資本はますます不足を感ずるようになり、当時の資本主義の時代では、口こそ対人信用はとなえられたが、肝心の人を見ることがむずかしいので、貸すほう でも安易な方法をとり、物や金に対して貸す結果となり、出光の資金難は至難の道を歩き続けた。
しかも人によって事業はどしどし発展し、その結果は事業はいつも資金に先んじて伸びてゆく。資金の不足は出光の年中行事となった。
店内において、金儲けと配給者としての使命の達成との矛盾が起こった。
私はまたこの矛盾の真只中で考えて考えて考え抜いた。
問題は簡単である。資本家に屈して資本主義経営に移るか、あくまで民衆の事業としての経営に猛進するかの二途のいずれを選ぶかであった。
もちろん金融業者の中にも真剣に出光を研究し検討し興味を持つ人もあり、またこれらの人々の支援は徹底的なものがあった。
私の唯一の力であり尊い慰めであった。私は信念に生きるための苦しみを甘受して決して逃げなかった。
今日からは想像もできないような資金難を甘受しつつ、また店内を戒めつつ外部の了解につとめた。
そして資金に苦しみ苦しみ、長い年月の間事業は絶えざる発展を続けた。
この苦しみが私とともに店員を人として訓育したことはいうまでもない。
かくて人は事業をつくり、事業は資金をつくっていった。人と金の順序についても信念をもつようになった。
終戦直後、出光の人が口々に、出光は人が資本である、出光は資本を失っていない、この生きたる資本は馘首(かくしゅ)すべきでないと、言い合ったことも当然のことである。