創業者 出光佐三

人間尊重 出光佐三

経営の原点「人間尊重」

『人間尊重は、人間が人間を尊重することであって、人間を中心とした考え方である。自ら省みて尊重すべき人となり、こうしてお互いに尊重しあうということである。自ら省みて尊重すべき人とはどういう人であるか。これも理屈を並べたてれば、とめどもないむずかしいことである。しかしながら、これも理屈ぬきに常識をもって実際的に考えればきわめて簡単なことである。自ら顧みて平和を作り、人類の福祉増進に役立つような人として恥ずかしからぬ、実に尊重すべき人となることである。さらに進んでこういう人々がお互いに尊重しあって、一致団結して平和・福祉の増進に尽くすということである。』

(出典:「我が六十年間 第二巻」61~62頁)

出光佐三の人生

出光佐三の人生

1885年 出光佐三、誕生
1891年 赤間小学校に入学
1895年 東郷高等小学校に入学
1901年 福岡商業学校に入学
1905年 神戸高等商業学校に入学
1909年 酒井商会入社
1911年 出光商会創業
1913年 下関に進出、漁船用燃料油の販売に着手
1919年 凍結を防ぐ車輪油を開発、満鉄へ提供
1923年 計量器付き配給船を考案、中身給油の開始
1929年 朝鮮における石油関税改正のために奔走。海外石油会社による、石油の高値販売の是正に貢献
1940年 出光興産を設立
1945年 海外全店閉鎖、敗戦後の出光の生き方を明確に示した「玉音を拝して」を訓示
1946年 タンク底油の回収その他の諸事業(農業、水産業、ラジオ修理販売、印刷)を開始。昭和26年までにすべて廃止
1947年 出光商会と出光興産が合併
1949年 外資と提携しない民族系石油会社として唯一、元売り業者の指定を受ける
1951年 「消費者本位の石油政策」を書き、政府当局に建言
1953年 イラン石油を輸入(日章丸事件)
1957年 徳山製油所、竣工
1962年 第一宗像丸が遭難、社葬を営む
1966年 出光興産社長を退任し、会長に就任
1981年 永眠
言葉で知る出光佐三

言葉で知る出光佐三

金言

出光の5つの主義方針

出光の5つの主義方針

人間尊重

一、出光商会の主義の第一は人間尊重であり、第二も人、第三も人である。
一、出光商会はその構成分子である店員の人格を尊重し、これを修養し、陶冶し、鍛錬し、かくして完成強化されたる個々の人格を、更に集団し、一致団結し、団体的偉大なる威力を発揮し、国のため、人のために働き抜くのが主義であり、方針であるのであります。
一、人間がつくった社会である。人間が中心であって、人間を尊重し自己を尊重するのは当然過ぎるほど当然である。種々の方針や手段はこれから派生的に出てくるのである。

大家族主義

一、いったん出光商会に入りたる者は、家内に子供が生まれた気持ちで行きたいのであります。店内における総ての事柄は親であり子であり、兄であり弟である、という気持ちで解決して行くのであります。
一、出光商会は首を切らないという事が常識となっておる。首を切られるなど思っている人は一人もないと思います。

独立自治

一、仕事の上においても、私のみが独立しているのではありません。店員各自が、その持ち場持ち場において独立しているのであります。換言すれば、自己の仕事の範囲では全責任を負い、完全に事務を遂行すべきであります。
一、私生活に公生活に独立自治の大精神を体得し、個々に鍛錬強化されたる店員が、店全体の方針の下に一糸乱れず一致結束し、団体的総力を発揮するのが、すなわち出光商会であります。

黄金の奴隷たるなかれ

一、出光商会は事業を目標とせよ。金を目標とするな。しかしながら決して金を侮蔑し軽視せよと言うのではない。
一、事業資金として大いに金を儲けねばならぬ。経費も節約せねばならぬ。冗費無駄を省かねばならぬ。(中略)ただ将来の事業の進展を邪魔するような、儲け方をしてはならぬ。あくまでも事業を主とし、資本蓄積を従とし、この本末を誤ってはならぬ。

生産者より消費者へ

一、創業に際し、先ず営業の主義を社会の利益に立脚せんとしました。内池先生※より示唆されたる生産者より消費者への方針を立てたのであります。
一、生産者に代わって消費者を探し、消費者に対しては生産界の変遷、品質の改善発達の状態、需給の釣り合い、市場の情勢、価格の変動等について専門的の知識を供与し、相互の利便をはかる機関は社会構成上絶対必要なる事でありまして、社会と共に永久であるという信念を持ったのであります。
※内池先生:佐三が卒業した神戸高等商業学校の内池廉吉教授。「配給論」の講義を担当。

動画に見る出光

出光佐三と宗像大社

出光佐三と人間尊重 前編

出光佐三と人間尊重 後編

出光創業史料室のご案内

出光創業史料室は、北九州門司港レトロの一角にある出光美術館(門司)に併設されています。出光創業100周年を機に展示を全面改装しました。出光佐三の足跡を是非ご覧ください。

出光創業史料室

著作物

創業者出光佐三の著書、関連書籍には主に以下のものがあります。
※販売に関しましては、お近くの書店へご確認ください

  • マルクスが日本に生まれていたら<新版>/春秋社/出光佐三

  • 働く人の資本主義<新版>/春秋社/出光佐三

  • 「人の世界」と「物の世界」<新版>/春秋社/出光佐三

  • 人間尊重七十年/春秋社/出光佐三

  • 出光佐三 魂の言葉/海竜社/滝口凡夫

  • 出光佐三 黄金の奴隷たるなかれ/ミネルヴァ書房/橘川武郎

  • 出光佐三 反骨の言魂 日本人としての誇りを貫いた男の生涯/PHPビジネス/水木楊

  • 出光佐三の日本人にかえれ/あさ出版/北尾吉孝

  • 士魂商才の経営者 出光佐三語録/PHP文庫 /木本正次

  • 評伝 出光佐三-士魂商才の軌跡/プレジデント社/高倉秀二

  • 小説出光佐三-燃える男の肖像/復刊ドットコム/木本正次

  • 出光興産の自己改革/有斐閣/一橋大学

  • 生と死の記録-続・三陸物語/毎日新聞社/萩尾信也

  • 海賊とよばれた男(上・下巻)/講談社/百田尚樹

  • 海賊とよばれた男(上・下巻)文庫版/講談社/百田尚樹

  • 海賊とよばれた男(上・下巻)文庫版 /講談社/百田尚樹(作画・須本壮一)

※「海賊とよばれた男」は創業者をモチーフにしたフィクションの小説として発行されています

関連リンク

酒井商会に丁稚として入社

酒井商会に丁稚として入社

「大事をなしとげるためには、小さなことから始めなければならぬ」。名門校であった神戸高等商業学校を卒業した出光佐三は、同期たちが大企業や大手銀行に就職してゆくところ、「大企業に入社すると、一部の仕事しか担当できないが、小さな会社なら主人がどのような仕事をしているか全てを間近で見ることができる」と、批判を浴びながらも小麦粉と機械油を扱う個人商店・酒井商会へ入社。経営の労苦や経営者の立ち居振る舞いを肌で学びとりました。

漁船用燃料油として軽油の販売を開始

漁船用燃料油として軽油の販売を開始

大正時代が幕を開けた頃、沿岸漁業が発展し、発動機付きの漁船が全国的に普及し始めました。
漁船に使われていたのは、高価なガソリンや灯油ばかり。出光佐三は熱効率がよく、安価な軽油への切り替えを漁業家に勧めて回りました。しかし、切り替えへの抵抗は強く、色や臭いに難癖をつけられる始末。
水産界の近代化を進めようとする若手改革者・技術者たちの賛同を得ながら軽油への切り替えを推し進め、さらに、日本石油の倉庫に眠っていた未洗い軽油を買い取って漁船用の燃料として安く提供。燃料費は大幅に下がり、漁業家に利益をもたらすことになったのです。噂は広まり、やがて関門沿岸の漁船の7割に対して軽油を供給するまでに。この躍進ぶりを人々は“海賊”と称しました。
出光の躍進ぶりを面白く思わない同業者から「出光の販売区域は門司だ。下関からは手を引いてほしい」との声も上がりました。しかし、出光佐三は「海の上では売っているが、下関では売ってない。海のどこに下関と門司の境界線があるのか?」と切り返しました。さらに、「倉庫に眠っていた軽油を大いに活用したことを、褒めてもらいたいくらいだ」とも付け加え、さすがに相手も黙るしかなかったそうです。

石油統制に対する激しい抵抗・反対

石油統制に対する激しい抵抗・反対

1931年の満州事変をきっかけに、戦略物資として石油の重要性が高まると、石油産業に対して段階的に国家統制が強化されていきました。その一環で国と軍が大規模な石油組織の設立を試みるたび、出光佐三は反対の姿勢を示しました。満州国の石油専売制計画には「無用な統制は不要」と猛反対。38年には国策会社である大華石油の、41年には北支石油協会の設立に対しては「屋上屋を架す、非効率な大組織は不要」と軍部に強く反発をし「人間が信頼一致の力を出せばもっと少数でできる」と主張。大華石油設立の計画は頓挫しましたが、後者は北支石油配給機構の簡素化により配給は実績があった当社に一本化されることになりました。

満鉄へ凍結を防ぐ車軸油を提供

満鉄へ凍結を防ぐ車軸油を提供

日本の国策会社であった南満州鉄道株式会社(満鉄)。しかし、使われている車両や機械油はすべてアメリカ製品で、極寒の地・満州では貨車の車軸油が凍結して焼き付けを起こすトラブルが続発していました。そこで1917年、出光は耐寒車軸油「二号冬候車軸油」を開発。おりしも翌年、車軸油凍結による大事故が発生したことをうけ、満鉄は米国メジャー石油会社製の2種と、当社製の2種の車軸油を分析・実施試験を行いました。その結果「二号冬候車軸油」が最も優秀であることが証明され、全面採用が決定。出光佐三は車軸油の売値をメジャー社の半値とし、高品質と安価を両立させた消費者本位の姿勢をここでも打ち出しました。

タンク底の残油を回収

タンク底の残油を回収

終戦後、GHQは旧海軍所有の石油タンクの残油を有効処理して配給するよう命じました。ガス爆発などの危険が懸念されるため各企業が辞退するなか、「廃油を活用することは、社会的に必要な事業であり、いかに困難でも誰かがやらねばならぬ」と全国8か所の燃料タンクの残油回収を決断。機械での集積が難しいことから、出光の若手社員が手作業で1年4か月かけ、約2万KLの残油を回収しました。出光佐三の「難事業こそ、彼ら(出光社員)をしてどんな苦難にも耐え抜く強い精神力と実行力とを養わせることになるであろう」という言葉どおり、当社の艱難に立ち向かう企業姿勢の象徴となりました。

日章丸事件

日章丸事件

第二次世界大戦後、イランの石油資源はイギリス資本の石油メジャーであるアングロ・イラニアン社の管理下に置かれていました。石油資源の利益が分配されない状況に不満を抱いたイランは、1951年、石油資源の国有化を宣言。イギリスとの対立が深まり、ついにはイラン石油を積載したイタリア船がイギリス海軍に拿捕されるという事件まで起こりました。
当時、日本はメジャーを介さない独自ルートで石油を輸入することが難しく、日本経済の発展を阻害する一因だと考えられていました。イラン国民の困窮も含めた事態を重く受け止めた出光佐三は、直接、イランと取引することを決意。
粘り強い交渉の末に水面下で取引の合意を得た出光は、1953年3月23日、日章丸を極秘裏に神戸港から出港させました。行先を知っていたのは、出光佐三ほか船長を含めたわずか数人。航路上の危険な個所を入念に調べ、イギリス海軍の包囲網をかいくぐり、イランから石油を日本に持ち帰ることに成功しました。
「出光の利益のために石油を輸入したのではない」「横暴な国際石油カルテルの支配に対抗し、消費者に安い石油を提供するために輸入したのだ」。こうした考えに基づく日章丸の快挙は、世界に一大センセーションを巻き起こし、日本が産油国と直接取引をする先駆けとなりました。

わずか10か月で徳山製油所を建設

わずか10か月で徳山製油所を建設

戦後の占領下において、石油メジャーによる石油輸入の抑圧が厳しい中、出光は日章丸によるイラン石油の直接輸入に挑戦するとともに、近代的な製油所の建設を構想し始めました。
出光佐三は製油所の建設予定地として、タンク底の残油回収をした徳山の海軍燃料廠(※)跡地に的を絞りましたが、敷地と施設の使用許可を申請しても、留保される結果に。敷地などの払い下げを申請し、許可されたのも束の間、朝鮮戦争勃発によって接収される始末。その後、接収が解除されたものの、払い下げをめぐって昭和石油とし烈な攻防戦が繰り広げられました。
それでも信念を曲げることなくあらゆる手を尽くし、タンク底の残油回収作業から約十年の歳月を経て出光への払い下げが決定したのです。
払い下げ後も建設資金の調達、国内外のメーカーや協力者の開拓と調整に苦慮しましたが、着工からわずか10か月後には誰もが目を見張る、世界最高レベルの近代的な製油所が完成しました。世界的驚異と称された短期竣工は、約二百数十社、延べ五十九万人もの人が一致協力した「人間の力」の証として語り継がれています。

※ねんりょうしょう:軍が保有していた軍需工場である工廠のひとつ。

士魂商才

士魂商才

生活を質素にしたり、われわれが経費を節約するというようなことは金を尊重することで、奴隷になることではない。

それからまた、合理的に社会・国家のために事業を経営してそして、合理的に利益をあげる。これは金を尊重することだ。

しかしながら、昔の商人のように人に迷惑かけようが、社会に迷惑かけようが、金を儲けりゃいい。これは金の奴隷である。それを私はとらなかった。

しかし、私は金を尊重する。昔の侍が金を尊重することを知っておったならば私の先生が私に書いてくださった額にあるように
士魂商才 侍の魂を持って商売人の才を発揮せよ。

この士魂商才が武士によって発揮されて日本の産業は、明治時代に外国のいいところを採り入れて、りっぱな事業家がたくさん出たと思うのです。

互譲互助

互譲互助

個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。

ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。

それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。
この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、
「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」
と言うんです。

互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。
大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。

順境にいて悲観し、逆境において楽観せよ

順境にいて悲観し、逆境において楽観せよ

つねに好景気が続くものなり、と考えていたから、今度の不況のようなときにとり乱して右往左往するんだ。ぼくは景気のいいときに、景気の悪いときのことを考えて準備しておけと言っている。ぼくはいつも言う「順境にいて悲観せよ」という言葉がそうだ。

ところが出光なんか、今みたいにみんなが意気消沈している不況時代に、将来のために積極的にいろんなことを計画している。これは「逆境において楽観せよ」ということだが、この逆境のときに立てた計画は堅実で間違いない。将来必ず変動が来ることがわかっていても、儲かったときにワーッとやりたいというのが人間だ。

そこに人間の矛盾性がある。出光で人間尊重と言っているのも、こうした人間の矛盾性をつつしむ、ということだ。

第二の定款

第二の定款

出光は石油業というような些事をやっているのではない、出光の真の目的は人間が真に働く姿を現して、国家社会に示唆を与えよ。

私は石油配給を些事と言っておる。社内からも『些事とはなんですか、大事業をやっているじゃないですか』という抗議が出たくらいだ。けれども私は『石油配給なんてものはちっぽけなものじゃないか。私がやっているのは、人間というものはこうあるべきだということを実際に示すことだ。政治・教育すべてに人間のあり方を示すことをやっておるのだ』と言った。

タンク底にかえれ

タンク底にかえれ

戦後で仕事が少ない当時ですら、この厳しく危険な作業を引き受ける者はいなかったが、出光従業員は敢然とこれに取り組み、この難事業をやりとげた。

この活動で、集積不能として見捨てられていた廃油を貴重な物資と化して国家のために活用することができたのである。

一人ひとりが経営者

一人ひとりが経営者

仕事の上ではお互いに独立して、ぼくはぼくなりの仕事をしておるし、従業員は従業員なりの仕事をしておる。

言い換えれば、各自の受持の仕事の上では、お互いに自主独立の経営者だということだ。

出光の若い人が「私は経営者です」といっているそうだが、それはみなが権限の規定もなく、自由に働いているということであって、ぼくはこういう形が理想だと思う。

無我無私

無我無私

外国ではこの無ということは、何もないということです。

ところが日本の無我無私ということは、最大ということなのです。自分をはなれ、自分をなくしたときに、そこに社会的に一番大きなものが出てくるのです。

自分にとらわれているときは小さい。しかも、その自分は人格、学問、技術すべての点において人に負けない強いものであることが無の前提である。
その強いものを自分のためにのみ使わず、お互いのために使うということが無、無我無私のあり方です。

失敗は授業料

失敗は授業料

人間なら誰だってあやまちがある。ぼくがあやまちをやってもとがめられず、社員がやるととがめられる、ていう法はないと思う。

それだから人間らしいあやまちはとがめない。

ただ、そこで忘れてはならないのは、あとで自己を反省する心のあり方だ、反省する心の積み重ねがあって、はじめて失敗は尊い経験となって生きてくる。

したがって、失敗はその人にとって尊い授業料となりうる。そこに進歩がある。

実行有言

実行有言

空理空論ではだめだということだ。

だから実行しなければだめだということは一般の通論になっている。
逆に言えば”有言不実行”ということは、何もせんということだ。
理屈ばっかり言って実行できない人もいる。

”有言不実行”の次に、黙って実行せよというのが”不言実行”だ。
実行に重きをおいたのだ。一般社会の人は、黙って実行せよということになっている。

ところが出光は”不言実行”で黙っておってはいかん。実行して、それでもって人に示唆を与えるのだ。

これが”実行有言”じゃないか。実行して、人にこうしなさいと言えるのが出光じゃないか。示唆を与えるのだ。

徹底的な親切心

徹底的な親切心

即ち、今後の店員指導は如何にするや、ただ
 一、店員に対し、徹底的な親切なる心をゆうすること
 一、身を以って範をしめすこと
に尽きるのであります。

付焼刃の親切や、鍍金の親切では駄目である。親切は徹底せねばならぬ。
上下、又は同僚間に、気兼や遠慮がある様では、親切は決して徹底していない。肉親の兄弟を鞭打つ以上の打解けたる親切であらねばならぬ。誤解を恐れたり、自分の立場を考える様では、人に親切は出来ぬ。

努めて難関を歩め

努めて難関を歩め

僕は努めて難関を歩け、ということを言ってきた。
ある目標に達する時にイージーゴーイングをすれば、すぐに達せられる道がある。
これは経済学の教えである。

けれど僕は、努めて難関を歩けということを言って、経済学の原理とは反対の行動をとってきた。
なぜかといえば人間の目標は、ここにあるのではない。
その先の先にある。

イージーゴーイングをやって、ここにきた人は、ここまでは難関を歩いてきた人と一緒であるが、この先にまだ難関がある。その時には、もう登れない。

それは金持ちの坊ちゃんと一緒で、人間としての力がない。
努めて難関を歩いて、努めて苦労を味わう。
これが人間としては、大切なことである。
これを僕は教えてきた。

投機で金儲けはやらないという、経済原理に反することを言ってきたから、明治、大正、昭和の初め、いわゆる資本主義の全盛時代には極端に苦しんだ。

その苦しみが今日の出光をつくる、大きな基礎である。

自問自答

自問自答

去年の若い社員の教育によって、若い社員が出光人というのはどういうものであるかということを自発的に自問自答し始めたから、もう大丈夫です。

いわゆる自問自答会ができたごとく、自分に質問して自分に答える。

これは自分のものになるということです。本を読んだり、人に教えられたりしたものは自分のものにならない。

艱難汝を玉にす

艱難汝を玉にす

(出典:「我が六十年間 第一巻」246~247頁)

(前略)終戦後海外から引き揚げて来た多数の社員も早や二ヶ年を過した。今年の夏の七八月は全社員の勤務の調査に没頭した、その結果は前に述べたような海外の学校出に対する悩みは完全に拂拭(ふっしょく)されたのみでなく、吾々の信念である處(ところ)の、『力(つと)めて艱難(かんなん)に向へ、艱難必ず汝(なんじ)を玉とす』と言う事に対して、体験上確固たる信念を得ることとなった。広島県の山奥に戸手実業学校と言うのがある。その卒業生が轡(くつわ)を並べて優秀な成績を示して居るのが特別に目立つ、校長や先生方の人格が影響しているのか、伝統的の校風の然(しか)らしむるのか、土地の美風に感化されて居るのか調べて見たいと思っている。次に上海商業とか台湾の学校とか私の悩みであった卒業生が大体に成績が良くて、その中に優秀者を多く出している事は私の望外の大喜びであった。本人たちのために喜ぶと共に、艱難汝を玉にす、力めて苦労せよと言う吾々の信念がありありと証拠立てられて、その後総(すべ)てに力強く、自信タップリと歩み得ることに非常に満足するものである。

満州とか中国とかに永住していた人々は骨をその地に埋める覚悟で、財産の全部を外地に移して居た。それが敗戦によって全滅したのだから物心両面から受けた打撃苦痛は想像に余るものがある。引き揚げ迄の肉体的苦労に加へて、全家族の将来を案ずる時にその精神的の悩みは死に勝るものがある。その子弟たる出光の同士とその家族達は出光の覆滅を想像しつつ悩み抜いたであろう。内地に父兄を有する人々とは段違いの悩みであったろう。そして肉体的苦しみの中にあって、瞑想又瞑想の絶好の機会を与へられた。艱難汝を玉にするの機会は与へられた。ジャワのある港で日本人に重労働が課せられた。敵側のために真面目に働くことはないと言うのが皆の意見であった。この時に出光の人十数人は断然これに反対して真剣に働いて捕虜としての全責任を果たそう、これが日本人としての真の態度である、と主張し二三十人の共鳴者と共に全力を盡(つく)して働いた。これが敵側を感動さして、挨拶も対等に交換するようになり、総てに対して日本人を尊敬するようになったと言う美談もある。力めて苦難に向い、自分を玉としたる好適例である。

道徳は時代や社会とともに変化するのか

道徳は時代や社会とともに変化するのか

(出典:『マルクスが日本に生まれていたら』177~179頁)

質問
マルクスは、道徳や倫理が人間や社会にはじめから備わっているものではなく、人間社会の発展にしたがって発達するものと考えています。
そして階級社会では、階級的道徳が存在し、それぞれ階級の利益を表現するものであると考えています。
ところで店主は、時代と民族を越えた普遍的な道徳を認められますか、それとも道徳は時代とともに変化すると考えられますか。

出光
道徳というものは、時代とともに変わるようなものではない。
人間社会の平和・福祉をつくるのが道徳であって、あとはなにもありゃしない。
道徳というのはつくるものでもなければ、書いたものでもない。
人間の心の中にあるものだ。

二人以上の人間社会で平和にしあわせに暮らしましょうということ、それが道徳なんだ。
しかし人間は矛盾性やわがままを発揮して非道徳なことをするから、それを戒めるために宗教、哲学などがある。
ところが、西欧では征服者が被征服者を治めるために法律をつくり、規則をつくってそれを守るのがモラルであるように、鈴木 大拙(すずき だいせつ)※先生からぼくは聞いておるがね。
そういう対立闘争のモラルというものは時代とともに変わるだろうし、国によって違うだろう。
しかし道徳は全人類が平和にしあわせに暮らすということであって、それ以外にはない。
したがって民族や時代や国によって変わるようなものではない。この意味で、思想も道徳も人類の存するかぎり唯一永久不変である。

質問
店主は、先ほど道徳の理念として、二人以上の人間が生活するには、お互いに仲良く平和に暮らすことだ、と言われましたが、そのような考えの出てくるもとは、なんでしょうか。

出光
そのもとは愛だよ。人類愛。
愛ということは、これは簡単に言えば、相手の立場をいつも考えるということ、とくに強い人が弱い人の立場をいつも考えるということだ。
相手の立場をいつも考える、ということは互譲互助だ。

※鈴木 大 1870~1966 哲学者、禅の研究家。
拙:禅を軸とした東洋思想を英語でも著し、海外に広めた。1949年文化勲章受賞。店主とは仙厓和尚の書画を通じて親しくなった。

日本人にかえれ

日本人にかえれ

「日本人にかえれ。」
これは、創業者出光佐三の言葉です。

日本人が古くから大切にしてきた和の精神・互譲互助の精神、自分たちの利益ばかりを追求するのではなく、世のため人のためにことを成す。
佐三の信念によって、出光はいまも、そうした日本人らしさを心に活動しています。

東日本大震災に襲われた日本に向け、海外から届いたたくさんの励ましの言葉。
その中にも、佐三が大切に考えていた日本人らしさを称賛するものがありました。
その数々の言葉によって、私たちは勇気づけられ、日本人であることの誇りをあらためて認識することができました。

一方で、震災を経たいま、本当のゆたかさとは何か、私たちは何を大切にして生きていくべきなのか、これからの日本人のあるべき姿はどのような姿か、一度ゆっくり立ち止まって、向き合う必要があるのではないでしょうか。

本日、出光は創業100周年を迎えました。
これからの100年、私たちに何ができるのか。
世界が日本に注目するいま、私たちはこれまでの歩みを振り返り、新たな一歩を踏み出し、次の100年の社会づくりに貢献する企業を目指してまいります。
私たちは、日本人のエネルギーを信じています。

出光創業100周年
2011年6月20日 新聞広告へ掲載

人間というものは、一生働いて働きぬくものである

人間というものは、一生働いて働きぬくものである

出典:『我が六十年間』2巻655頁

人間というものは、一生働いて働きぬくものだ。いまの世の中では、なにか贅沢(ぜいたく)をしたり、奢侈(しゃし)にふけったりすることが人生の目標のごとく言っているけれども、そんなことが人生の目標ではない。贅沢をすれば肉体上の楽しみはあるかもしれんが、精神的には非常な不安がある。贅沢や奢侈にふけることを自慢して他人を見下しているような人間は、人間としては下の下で、獣に近い人だと言うべきじゃないか。
いつも言って聞かせているように、離れ小島に一人でいるのならば、どんな勝手なことをしたり贅沢や奢侈をやってもいいだろうが、二人以上で社会をつくっているからには、お互いに幸せであるということを考えにゃならん。それが人生じゃないか。日本ではお互い、互譲互助ということを教えられている。互譲互助の精神の人が、自分だけ勝手なわがままをやるかどうか、考えればすぐわかることだ。それがいわゆる日本の神、皇室が教えられた、相手の立場を考えて「徳」の社会、「和」の社会をつくるということなんだよ。それだから「人の世界」の本質からいうと、一生働いて働きぬく、肉体的には苦労であるけれども、精神的にお互いに一緒になって人生を楽しむ。こうだろう。それには自分だけが肉体的になにか快感を覚えて精神的に苦しんでいるような人生は、ありうべからざるものだよ。それは「物の世界」の人生であって、「人の世界」の人生は肉体的に、お互いに苦しんで一生働いて、精神的に仲よく愉快にその日を送るということじゃないかな。

心の富貴の人になって、金を持った貧乏人にはなるな

心の富貴の人になって、金を持った貧乏人にはなるな

(出典:「マルクスが日本に生まれていたら」156~157頁)

ぼくは子供のときに、贅沢をつつしむという点で、両親から非常にきびしく育てられた。ぼくの家は中流以上の家庭だったが、食事など非常に質素だった。その頭でいくと、ぼくは贅沢(ぜいたく)は人を殺す、贅沢は対立のもとだ、と言うんだよ。生活が安定するしないは、心の安定の問題なんだ。
ぼくはこのように、貧困の問題を物の面からだけでは考えない。人間は食べなければ生きていけないが、それは足ればよいのである。それとは別に心の富がありはしないか。東洋では昔から「足るを知る者は富む」と言うが、自ら満足することが大切なんだ。ぼくは富ということについて考えるんだが、心の富ということのほうが大切ではないか。「物の国」では、金とか物とか物質的なものが富となっているが、「人の国」では、心の富・心の豊かさというものがあると思うんだ。前にも言ったように、心に善悪はなく、心はすべて真心だと思う。真心があれば、人に親切にしたり、社会のために尽くしたり、自分が譲って人を助けたりする、というような善い行為が出てくる。
このような真心の発達している人が、心が富んでいるということじゃないかな。そういう人は知恵とか知識とかを悪用せず、人のため社会のために善用することになる。そういうわけで、心が常に富んでいるということが、人間にとっていちばんしあわせであり、大切なことだと思うんだ。反対に、貪欲、非道の人がいくら金を持って贅沢をしていても、おそらく心の中には福祉というものは考えられないだろう。(中略)よく物の面の豊かさを外国と形式的に比較して、まだ追いつかない、追いつかないというが、なにも外国に物の面で追いつかなくてもいいじゃないか。それよりも外国の人に向かって、心の豊かさと心の富のあり方に追いついてこい、それが平和に通ずる道だ、と教えてやったらどうだい。要するに、心の富貴の人になって、金を持った貧乏人にはなるな、ということだ。

尊重すべき人間は愛の手で育つ

尊重すべき人間は愛の手で育つ

(出典:『人間尊重五十年』 43~44頁)

純朴なる青年学生として人間の尊厳を信じて「黄金の奴隷たるなかれ」と叫んだ私は、これを実行に移して、資本主義全盛の明治、大正時代においては、人材の養成を第一義とし、次いで戦時統制時代においては、法規、機構、組織の奴隷たることより免れ、占領政策下においては権力の奴隷たることより免れ、独立再建の現代においては数の奴隷たることから免れえた。また、あらゆる主義にとらわれず、資本主義、社会主義、共産主義の長をとり短を捨て、あらゆる主義を超越しえた。かくて五十年間、人間尊重の実体をあらわして「われわれは人間の真に働く姿を顕現して国家社会に示唆を与える」との信念に生き、石油業はその手段にすぎずと考えうるようになったのである。
それならどうしてそんな尊重すべき人間ができたかということなのであるが、これがまことに簡単である。簡単であるが実行は甚(はなは)だむずかしいことである。五十年前、私が門司で仕事を始めたときに優秀なる学校卒業生はこないから、家庭の事情で上級の学校へ進学できないけれども、人物も良く成績も良い子供を採用した。学問より人間を尊重したのである。はじめは、小学校を出たばかりの子供を連れてお母さんが会社にこられた。どうかこの子を頼みますといわれたときに、私はそのお母さんに代わってこの子を育てましょうと思って引き受けた。その母の愛を受け継いだ私はこれを実行に移し、それから今日まで、あらゆる場合にあらゆる適切な形で母の愛を実現した。これが家族温情主義といわれているのである。育てようという子供は辞めさせない、これが首を切らないということになった。もちろん、家庭に出勤簿なんかありえない。労働組合も要らない。子供が妻帯すれば、家賃も嫁の生活費も孫の手当もやることになるから、給料なんかも、しぜん生活給となる。お母さんはどこまでもお母さんであって、子供の喜怒哀楽に対してもお母さんらしくあるようにしているだけのことである。これを要するに、愛情によって人は育つという一言に尽きると思うのである。こういうふうにして、愛情あふれるお母さんが社内に次から次とできているわけである。